あれから5年が経った。
あの震災はそれまでの自分の常識や人生観をものの見事に根本から覆した。
そんな自分にもたらされた多くの劇的変化の中で特に一番大きかったのは、案外とても個人的なことだった。
それは自分自身の生き方に関すること。
それまで自分は、とにかく「自分の音楽を世間に認められたい」という承認欲求のただ一心で生きてきた。
それが人生最大の夢であり目標であり自分の行動原理の全てだった。
それがきれいサッパリなくなった。
見事なまでになくなった。
何故か?
3.11以降、ありとあらゆる信じがたい報道や映像を目にし、それだけでは飽きたらず自分のこの目で確かめようと実際にまだ瓦礫の残る三陸沿岸を回った。
そこで、長い時間をかけて築き上げた街が、家が、物が、そして人々が、ある日突然一瞬にして跡形もなく消滅してしまった光景を目の当たりにした。
それは決して他人事などではなく、自分においてもいつ突然訪れても全く不思議はないのである。
そうした中で、時間をかけて考え考え、いつしか自分の中に芽生えてきたもの。
それは、「これからの残された人生を、ささやかな幸せを噛みしめ静かに感謝して生きる」ということだった。
地位も名声も夢もいらない。
お金は全くないと困るが生活できる必要最小限があればいい。
そしてある日突然やってくるかもしれない死を迎えたその瞬間に、「ああ楽しかったな〜、幸せだったな〜」と言える人生を送ろう。
そのためにはまず、悩みの原因やしがらみの多い生まれ育った東京を離れ、自分の一番好きな場所で生涯の伴侶と二人、誰にも迷惑をかけずにひっそりと穏やかに暮らす。
こう考えるようになったら、これまでの人生においてあんなに悩んだり苦しんだりしていたものが綺麗さっぱりと抜け落ち、信じられないくらいにあっけなくストンと楽になった。
今までいかに自分に無理をして他人の目や評価を気にして必死で認められようとしていたのか、ということに気がついた。
他人にどう思われたっていいではないか。
これに気付いたことにより、それは同時に他人の言動についても全く気にならなくなり、これまでのようにいちいち他人の発言や行動に腹を立てたり羨んだりすることも全くなくなった。
そして自分の全てであった音楽に対する接し方も変わった。
決して音楽が嫌いになったわけではない。
ただ、今まであれほど好きだった「音楽」を、いつしか自分が認めてもらうための手段にしてはいなかっただろうか?
そのために沢山無理もした。
そこにはストレスや苦しみが常につきまとっていた。
音楽活動から身を引いたことによって、これまで実は心の底では気付いていたけれど認めたくなかった自分の才能の限界に、今さらながらようやく気づくことも出来た。
今まで自分の持っているもの以上のことを必死でしようともがいていたことにやっと気づくことが出来た。
もう世間に認められる必要もなくなったのだから、これからは誰に聴かせるためでもなく、分相応にそして純粋に自分のために音楽と向き合うことができる。
そこから作りたいという欲求が生まれたら作ればいい。
その結果作れなくてもそれはそれでいいではないか。
それが自分。音楽が好きなことには変わりない。
こう考えたら今まで肩にのしかかっていたものがスッキリ落ちた。
そして最も不思議な事は、それまであんなに怖くて仕方なかった「死」への怖れがなくなった。
ただ親より先に死ぬわけにはいかないので、それまでは何があっても生き抜くが、そこから先は比較的穏やかに自分の人生の終わりと向き合うことが出来る気がする。
いつ突然、人生の終わりが訪れても、後悔なく感謝の気持ちで受け入れられるように。
これからの人生を、穏やかに充実したものにしていきたい。