チェリーの音楽幕府

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連合赤軍まつり終了

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自分の中で5年周期くらいで訪れる、手持ちの連合赤軍関連本を読みまくる「連合赤軍まつり」が、約2ヶ月かかって今回もようやく終了。
年を経るに従って毎回自分の中で感じることが少しずつ変化していくのが面白かったが、さすがに連合赤軍に興味を持って読みはじめて30年近くも経てば、それも固定されてきた気がする。

今回のハイライトは、今まで何度も読みかけては途中で放り出してしまっていた、森恒夫の『銃撃戦と粛清ー自己批判書全文』をどうにかこうにか最後まで読み切ったこと。
と言ってもとりあえず文字を追っただけで内容はほとんど頭には入ってこなかった。
赤軍派の彼は山岳ベース同志殺害で最も中心的な役割を果たし、逮捕から1年も経たずしてあっけなく自殺してしまったこともあり、逮捕後ほどない時期に書かれたこの「自己批判書」は、同志を死に追いやった自らの言動に対しての「自己批判」はするものの、総括の根本理論となった「共産主義化」や「革命戦争」を絶対的に正しいものとしている時点で、とても「総括」というには程遠い内容。

そもそも、当初の指導者がことごとく捕まり獄中に入ったことで、他の同志よりもほんの少しだけ活動期間が長かったり、大声でやたら小難しい言葉を並べて煙に巻く技術に長けていた彼が押し出されるように「指導者」の立場になっただけの話。

対する革命左派の永田洋子も同様で、そもそも組織が追い詰められて指導者の器ではない二人が手を結んだのが不幸の始まり。
そんな二人が閉鎖的状況の小さな世界で君臨し、同志を思いのままに吊し上げ糾弾し、「処刑」などという傲慢極まりない行為で他人の命すらもいとも簡単に左右できる絶対権力を持つに至った恐怖。

しかしそれは要因の一つでしかなく、根本的な原因は同志を「共産主義化」することで革命戦士として「指導」しようとしたこと、そこに至る「共産主義」という思想そのものにあったことがよくわかる。
全てを階級闘争史観で理解しようとする(これは我が国の歴史教育においても同様なのだが今は触れない)ばかりに世界情勢を見誤り、「革命戦争」こそが絶対正義として本気で信じ込んでいた彼らの姿は、今でこそあまりにも幼稚で噴飯もので滑稽とすら思えるが、中国で文化大革命が現在進行中だった当時は大真面目でそういう空気だったのだろう。
そして無邪気なほどに毛沢東を信奉して疑わない彼らの言葉により、その背後にあったものの正体が図らずも鮮明に浮かび上がってくる。
しかし共産主義を謳う国家からどんな小さな組織においても、歴史上ほぼ例外なく大規模粛清や虐殺行為が見られるわけで、そもそも共産主義という思想に潜む根本的な欠陥があると思わざるを得ない。

 そしてもう一つ忘れてならないのが、「正義」の暴走。
「正義」の恐ろしさは歳を経て最近特に強く思うようになった。

「正義」という価値観は絶対的なものではなく、それぞれの人の数だけ存在する。
よって、世の中の争い事のほとんどは、自らの「正義」の押し付け合いによって起こる。
ヒトラースターリン毛沢東ポルポトも、そして金正恩も、彼らの中では間違いなく「正義」だったのだ。

連合赤軍の彼らも、人一倍正義感の強い若者たちであったことは間違いない。
あたかも、健康マニアのことを冗談で「健康のためなら死んでもいい」などと揶揄されるように、彼らは「正義のためなら人を殺してもいい」ところまで行ってしまった。
その若者特有の正義感が、閉鎖された環境で暴走してしまうという構図は、オウム真理教事件と多くの共通点を持つように思う。
自分が連合赤軍オウム真理教に強く惹かれるのはこの点なんだと思う。
決して共感はできないけれど、どうしてここまで正義が暴走してしまうのかを知りたい。
永遠に答えの出ないテーマなのかもしれないが。

それにしても、普通は歳を重ねるに従って、前述したようなこの「正義」の青臭さと胡散臭さに気づいてくるものだと思うのだが、SNSなどを見ていると、いい歳こいた大人が自分を「絶対的正義」と信じて疑わず、安全な場所から他者を糾弾して悦に入る人があまりにも多い事に嫌でも気付かされる。

「正義」は危険なり。

 

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