桜が満開である。
近所の花見ポイントで芝生に寝転がると、頭の上の視界全てが桜の花とその後ろに広がる青い空で覆い尽くされる。時折風に吹かれて散る花びらが、そのまま顔に降りかかる。うー何という極上の贅沢だろう。
『桜へ告ぐ』を書いてもう三年になる。
以前持っていた桜に対する「理不尽な敵意」のようなものは今では全くなくなり、穏やかな気持ちであの圧倒的な力の前に身を委ねられるようになった。
歳とともに、桜の「力の深淵」を少しずつ垣間見えるようになってきた気がする。
そんな一年の間で数日しか会うことの出来ない桜をもっと近くに感じたいと思い、まだしっかりと形をとどめている落ちたばかりの花をたくさん拾ってきた。
そしてそれを全て風呂のお湯にぶちまけてザブンと入った。一度やってみたかったんだ。
水面一面桜の花に覆い尽くされたお湯にゆったりと浸かって、桜の香りに包まれながら本を読む。
花は形をとどめたままびっしりと浮かんでいる。
時間が経つにつれてハラハラと花びらが一枚一枚外れていく。これも風情がある。
花びらがとれた一つを手に取り、分解してみる。
一つのめしべがたくさんのおしべに囲まれていた。ハーレムだ。
めしべの根元はふっくらとふくらんでいた。これがさくらんぼになるのだろうか。
この偉大なる遺伝子を伝えることはできたんだろうか。
おしべの数を数えてみた。ひとつ、ふたつ、、、さんじゅうご、、、
ん? 三十五? さっき数えたのは三十六だったのに、、、
結局何本なのかは結論が出なかった。
何故ならばのぼせてしまったのだ。
結論は持ち越しだ。
ふと、こんな「狭い風呂の中で桜を独り占めする」というささやかながら満ち溢れた小市民的幸福感で、一瞬胸がいっぱいになった。
こんな小さな幸せを味わえるのは平和な世の中があってこそ。
特に、戦争を体験し「もう二度とあんな世の中にはするまい」との思いで必死で高度経済成長を作り上げてきた、両親の世代の人々に心から感謝した。
この小市民的幸福感を大事にできる世の中がいつまで続くのかは、僕たちの世代にかかっているのかもしれない。
明日はもっとたくさん拾ってこよっと♪