とにかくこのドラマ、放送開始直前から帰蝶役の沢尻エリカの突然の降板で撮り直しのため放送開始が遅れたことに始まり、放送開始後に今度はコロナ流行により長期間の撮影休止を余儀なくされるなどトラブル続きで、制作に当たっては相当な苦労があったことが容易に想像できる。
おそらく脚本の大幅書き直しと役者のスケジュール調整などで、当初予定していた構想とは全くかけ離れたものになってしまったことであろう。
そんな状態で迷走を繰り返しながらではあったが、ドラマ終盤主人公光秀が最終的に信長を討つことを決意するまでに至る流れはとても上手く描かれていたように思う。
特に最終回の本能寺に向かうまでの流れは緊迫感に溢れていてとてもよかった。
しかしクライマックスの本能寺のシーンそのものは非常にしょぼくてガッカリした。
このドラマ、特に後半はコロナの制約も大きかったせいか、歴史ドラマで最も重要な戦のシーンが非常にしょぼかったり、遠景などのCGもどういうわけかとても安っぽかったのが残念だった。
全話を観た印象を述べると、この『麒麟がくる』はさまざまなトラブルに見舞われて誠に不運で気の毒な面はあったが、やはり失敗作だったと言わざるを得ない。
いくつかわかりやすい原因はあるが、中でも最も大きな原因は、駒、東庵、伊呂波太夫の三大架空キャラに尽きる。
特に駒は将軍に至るまでありとあらゆる人物との人脈を持つスーパーウーマンぶりで、そのゴリ押し万能キャラ設定に辟易した。
おそらくは本来沢尻エリカの帰蝶がこなしたはずであろう役どころまでもが一手に駒に集中することになってしまったことが原因であろうが、門脇麦の役作りも終始定まらず、ただただ出てくるだけで「またコイツか」と思わせる不快なキャラになってしまった。
一方堺正章演ずる望月東庵はそのもったいぶった台詞回しが非常にイライラした。
東庵が喋りだすと途端にドラマのテンポが落ちるのがわかり、大抵は駒とセットのシーンなので「このシーン早く終わってくれ!」と願うばかりだった。
そして話題を集めたのが織田信長を演じた染谷将太。
概ね評判は良かったようだが、確かに最初出てきた時はこれまでの信長とのイメージの違いが新鮮だった。
しかし、成長して大大名になってからも相変わらず承認欲求とサイコパス的部分ばかりが強調されるばかりで、歴史を自らの才覚で変革し、時代の中心に君臨した戦国大名としての人物のスケールの大きさが全く描ききれていなかったのが不満。
降板した沢尻エリカの後を引き受けた川口春奈は、その心意気は素晴らしかったがやはり沢尻エリカと比べてしまうとどうしても格落ち感は拭えなかった。
コロナ後はスケジュールの都合かほとんど出番がなくなってしまったのも不運だった。
主人公明智光秀の最期をどう描くかは最初から注目だった。
さすがに一年間活躍した主人公が悲惨な最期を遂げて終わるのはいかがなものかと危惧していたが、最後の場面は描かず、更には生存の可能性まで示唆する終わり方はなかなか工夫の跡が見えて興味深かった。
随所に面白い試みはあったこのドラマだったが、トラブル続きの上にコロナという時代の波にモロに翻弄されてしまい当初の構想通りに進められなかったのは、製作者としては悔やんでも悔やみきれないところだろう。