チェリーの音楽幕府

音楽の話題が多いと見せかけてそうでもない

相撲部屋と教育

さて、普段から相撲好きを公言している俺としては、この話題はしておかなければならないだろう。

そう、時津風部屋の事件の話。

いくら相撲好きな俺でも、これは全く弁護の余地がない。なにしろ通常の稽古の範疇ではなく、明らかに私的リンチ事件であるからだ。親方の責任は重大であり、何故ここまで逮捕に時間がかかったのか不思議なくらいだ。朝青龍バッシングなんてどうでもいいことを延々とやっているのは、この重大事件をぼやかすためではないかと疑ったほどだ。

時津風部屋といえばあの大横綱双葉山が興した名門。その名を汚してしまったこともとても残念な事だ。逮捕された前時津風親方の現役時代双津竜も、子供の頃好きな力士だっただけに更に残念だ。

しかし同じく逮捕された現役力士たちは情状酌量の余地がある。何故なら相撲界は絶対的な上下社会なので、親方の命令には絶対に逆らえないから。親方に「やれ」と言われたらやるしかない。なのでこの実際に手を下したとされる若い弟子たちには気の毒な部分はある。

制裁の命令を下すのも親方、そしてそれを止めるのも親方しかいないのだ。

将来のある大事な若い弟子たちを犯罪行為の手に染めさせてしまった親方の責任は非常に重大だ。その二点から見て親方の犯した罪は非常に重い。

これがこの事件そのものに関する俺の見解。

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ここからはちょっと視点を変えてみる。

この不幸な事件が起きてしまった事によって俺が心配するのは、通常の稽古や、相撲界のしきたりに対する世間の目が必要以上に厳しくなってしまう事。そしてそれによる相撲界の側の萎縮。

そもそも相撲部屋の稽古というのは昔からそれはそれは厳しいもので、力士たちは「自分の稽古している姿は絶対に親には見せられない」という。特にぶつかり稽古は苛烈を極め、立ち上がれなくなった力士には竹刀や蹴りが飛び、水をぶっかけられ、口に砂や塩を押し込まれる。

確かにこうして文章にするだけでも人間としての常識を逸している印象があるが、どんな力士もみんなこれを経験して強くなっていくのだ。

しかしそこには長年の経験による親方の的確な判断が働き、「おい、もうその辺にしておけ」の一言でその過酷な儀式は終わる。これが本来の理想的なあるべき相撲部屋の姿だ。そしてそうしてしごかれた若い力士は、稽古が終わるとおかみさんの優しい言葉を受け、夜になるとしごいた兄弟子や親方に大いにご馳走してもらう。これが昔から繰り返されてきた相撲部屋の姿であろう。もちろんこれは理想的な姿であり、実際は非人間的な扱いを受ける事もしばしばあったようだ。

今回の事件は、本来の稽古とは別に行われた私的制裁だったが、今後は本来の稽古までもが批判の対象になってしまうことが予想される。そこをどう乗り越えるかが相撲協会の将来を左右する大問題だと言える。

確かに改革すべき古い体質は沢山ある。しかしあまりに神経質になり、肝心の稽古までもが制限されるようになってしまえば、相撲という格闘技のレベルが下がってしまう事になる。今でも昔に比べれば稽古はずいぶん甘くなってきたと嘆かれているが、これ以上甘いものになれば、相撲の魅力自体が衰退していってしまうだろう。

とはいえ入門する若者の減少は相撲界の将来にとって死活問題だ。その折り合いと妥協点をどこに見いだすか。

そしてもう一つの視点。これは非常に難しい問題なのだが、厳しい上下関係と絶対服従という「若者の鍛錬の場」としての相撲部屋のあり方。

相撲部屋には、昔から手の付けられない悪ガキを放り込んで、精神修練させる場としての役割もあった。実際現大関千代大海などは、地元では札付きのワルだったことは有名な話だ。入門当初はイキがっていた悪ガキも、相撲部屋に入った途端にその鼻っ柱を打ち砕かれ、絶対服従の世界に身を置く事で段々と精神が修練されていき、誰からも認められる立派な強い力士になる。強くなれずに辞めてしまったとしても、そこで叩き込まれた精神はどこの世界に行っても通用する人間を作る。

こういう役割も昔から相撲部屋にはあったようだ。

俺自身も、若いうちにこうした経験をすることは大事な事だというのが歳をとるにつれて段々わかってきた。俺がいまだにこんなにグウタラなのはそうした経験をして来なかったからのような気がしてならない。

かつては軍隊がその役割を果たしていたが、戦後はそうした役割は運動部くらいしか無くなってしまった。そこでもあぶれてしまった若者たちはヤクザになるしかなかった。そしてその最終的な受け皿であるヤクザこそが、究極の上下社会であることは非常に興味深い。

一時期問題になった戸塚ヨットスクール。確かに不幸な事件はあったが、あの校長の教育に対する熱い理念は、納得出来る部分が多々ある。

人権思想の氾濫で、みな若者に対して腫れ物にさわるようになってしまっているのは大きな問題だと思う。実際の教育現場でも教育崩壊が報告されて久しい。この原因は教師の権威失墜によるものであることは間違いない。体罰すら出来ない教師は生徒にナメられて当然だ。

しかし「権利」というのは「何をやってもいい」ということではない。

社会のルールという約束を果たして初めて、そのルールの範囲内で与えられるものなのだ。

こうした現状、早急な教育改革が必要だ。

しかしそこに立ちはだかるのは、「人権」という思想。

この言葉はとても難しい。

ある意味これほど曲解され利用されている言葉もないかもしれない。

現在は様々な所でこの言葉によりがんじがらめになっている事象がたくさんある。

社会の義務を果たしていない子供に大人と同じ人権が存在するのか。

社会のルールを破って人の人生を奪った犯罪者に同等の人権はあるのか。

本当に難しい。

相撲の話がずいぶん広がって長くなってしまった。

この辺に関してはまた次の機会にでも。

うんこちんちん。