チェリーの音楽幕府

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『双葉山の邪宗門』「璽光尊事件」と昭和の角聖 / 加藤 康男

人生も折り返し点をとうに過ぎ、これからの緩やかな終活として少しずつ身の回りから物を減らしていかなければならない。
中でも自分の持ち物で最も場所を取っているのが本であり、どんどん処分していかなければならないがこれが中々減らせない。
少なくとももうこれ以上は増やしたくないので、数年前から新たに紙の本を買うことは極力止め、ほとんど電子書籍で買うことにしている。
手に取った本の重みや匂いなどの実感はないのが寂しいが、いずれはそれも単なるノスタルジーになっていくのだろう。慣れればとても便利で読みやすく快適だ。
この本も電子書籍で購入した。

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 昭和22年、世間を騒がせた璽光尊事件。
終戦後まもなく雨後の筍のように乱立した新興宗教の中でもとりわけ璽光尊が世の耳目を集めたのは、そこに引退したばかりの大横綱双葉山と、囲碁呉清源という当時の国民的英雄が揃っていたから。

しかしその後二人とも璽光尊のもとを去り、それぞれ元の相撲と囲碁の世界に戻り、双葉山相撲協会理事長にまで上り詰めたことで璽光尊事件は社会的になかったこととされ、世間からもいつしかすっかり忘れ去られてしまった。

自分は双葉山が好きなので(もちろん実際には知らないけれど)この事件のことは個人的に興味はあったが、なにぶん戦後の混乱期のことでもあり、今となっては謎も多く、これまでほとんど語られることがなかった。

そんなすっかり世間から忘れ去られた璽光尊事件から73年経ち、改めて当時とその後の資料にあたり書かれたこの本。
興味はあったが、あまりにも昔の話ゆえに雲を掴むような曖昧なことしか知らなかった自分にとっては待望の貴重な記録で、非常に興味深く面白く読んだ。

 読んでみて新たに知ることが多かった。
当時大きく取り上げられた璽光尊事件であるが、その実態は戦後乱立した新興宗教の中でもとりわけ突出したものではなく、「事件」と言ってもその罪状は、のちのオウム真理教のようなテロ行為を企てるなど大それたものではなくごく軽微なものだった。

しかし引退したばかりとは言え国民的大英雄であった双葉山の存在があまりにも大きく、影響力もあったので、とにかく双葉山を璽光尊から引き離す為に警察が新聞社と図って大捕物を仕立て上げた、というのが本当のところのようだ。
実際璽光尊幹部は皆すぐに釈放されているし、大幹部であったはずの双葉山に至っては全くお咎めなし。

ではなぜ戦後このような新興宗教が林立したかというと、そもそも洗脳というのは、まず対象の人格やそれまで持っていた価値観を徹底的に否定し叩き潰し、まっさらな虚脱状態になったところに新たな価値観を植え付ける、というのが常套手段。
まさに時代は長い戦争が終わり、天皇人間宣言をしたことでそれまでの日本人の価値観がひっくり返り打ちひしがれているところで、いわば全ての日本人が洗脳を簡単に受け入れやすい状態になっていた。
GHQが戦前の体制や価値観をひとまとめにいわゆる「軍国主義」と称して全否定することでそんな虚脱状態を作り上げ、日本人に新たな「民主主義」という価値観を巧妙に植え付けたのは有名な話。 

 そんな中、特に双葉山はもともと信心深い上に彼の相撲人生そのものが、満州事変の年に入幕し、2.26事件の年に初優勝し、終戦とほぼ同時に引退と、大日本帝国の盛衰と奇妙なほどにシンクロしている。
そんな精神的支柱を全て失った状態の彼が「我こそが天皇」と嘯く璽光尊になびくのは赤子の手を捻るように簡単なことだったのかもしれない。

双葉山の邪宗門: 「璽光尊事件」と昭和の角聖

双葉山の邪宗門: 「璽光尊事件」と昭和の角聖